ナムアミアン

アニメ/音楽/映画/美術の話などをする予定でした。

AI対人間というくだらない構図こそ人間にだけ抱ける生のある怯え

日経平均株価が過去最高値を更新し続けているらしいですね。これで、我々の生活が潤うのかはわからないみたい。一日前のニュース見ているからどういう状況なのか把握し切れていませんが。

株価上昇の原因というのが、米の半導体の企業の決算発表が予想を上回ったから買注文が増え、それに伴う半導体関連の日本の会社の株価が上がったらしいです。よくわかりません。

バブル期を上回る好調らしいので、その半導体会社の影響の強さが怖いよ。高性能な電気製品の流通がこれからどんどん増えてるってことですね。ニュースでは何度もお金に実態のないバブル期の好調と違って、日本企業の業績がいいから株価が上がったんだって繰り返してますけど、よくわかりません。

これからどうなるのか、わからないみたい、みんな。とにかくお金持ちになりたいっす。働かずに生きていきたい。作家になりたい。毎日お酒を飲みたい。絵が下手になるので1ヶ月断酒していますが・・・

そんで、AIの成長や注目が半導体の流通に裏付けられることと思いますが、みんなAIに対して謎の危機感抱きすぎじゃないか?ベーシックインカムじゃないけど、AIに働かせて、全自動で働いてもらって、我々はお金を勝手に使ったらいいじゃない。そりゃ、お金の価値も下がるだろうけど、買う人間がいるのだからそこは大丈夫じゃないのかな。まぁあと電気の問題があるね。それだって、AIに人間と同じように学習という名の模倣をし続けてもらって、答えをすごい速さで出してもらおう。

今ネットではAIにイラストを描かせるなとか、声優の声を学習させるなとか言ってるけど、大衆が創意をそこまでと捉えているからじゃないか。やっぱ索引が大切なんだと思う。無法に使うことは何にしてもよくない。出典先を明記してAIクリエイションに勤しめばいいし、使われた絵師はマージン貰えばいいじゃん。

でも大抵、生成された結果はAIを作ったエンジニアの創意にまみれていると思うので、成果物の良し悪しは自分の手からは遠いでしょうね。宮崎駿はアニメーションにおける哲学として「動きは全部意思なんだ」と言ってました。「筋肉の動き全ては意思があってやっと動く、そういうアニメーションじゃなきゃいけない」って。宮崎氏のような哲学を持った創意工夫をAIでやれるかって言われたら微妙だ。結局芸術分野は、人生の普遍的な認識を各々の分野でやるだけのような気がするんだ。それを踏まえたら、AIを使用して絵を描く人間は、どれくらい創意的な意欲を持って取り組んでいるんだろうか、と思うね。やってみなきゃわからないとなって、創作活動を始める人もいるだろうし、元々意思のある人ならば、自分の創作哲学を出力できるようなAIエンジニアになる人もいるかもしれない。

大衆がAIに対する知識をつける段階なんだと思うのね。AIパフォーマンスの時代はそろそろ終わって、人員の足りない辛い職業の手助けになる流れにきっとなるよ。母が、保育現場に勤めていまして、風邪はもらってくるわ、いじめられるわ大変だったんだよ。辞めたら〜とか言ったら本当に辞めちゃって、5ヶ月も勤めてなかった気がするが。私も学童保育でアルバイトしてたのですごくわかるね、なんか職場がキモいの。(学童保育は保育資格も保育知識もない美大生でも入れる職場なので託児しない方がいい)よく、児童が園内で亡くなる痛ましいニュースをみますが、どうしてこういうお金なさそうな現場ではAIっていうか機械が使われないんだろうってめちゃくちゃ思う。手首にバンドさせて脈を常に測っておけばいいって思うし、カメラで危険な動きしてる児童をチェックさせたりすればいいのにね。カメラなんて不健全とかいうかもしれんが、死亡事故とか怪我とかはなくなるし、子どももいい感じに病的に育っていいんじゃないですか。子どもだって結構、賢いし、世の中の意味くらいわかる。過去に囚われている大人よりよっぽど柔軟だと思いますがね〜私は、懐かしいもの、だ〜〜〜〜いすきだが!!!!

 

イヤホンの充電満タンになるまで時間潰し執筆

グレイテストショーマン見ました。なんだこの映画は、と悲しくなって、私は途中でセッションを見返しました。グレイテストショーマンは歌も上手いし、映像もいい。でも深いアイデアを感じることはありませんでした。作品内の時間軸が曖昧だった点は、各々の時間の認識で鑑賞できて作品がたっぷりしていた満足感はありましたね。(以下細々した感想)

 

長いので、目次

 

 

グレイテストショーマン感想

ミュージカルの定石なのかもしれませんが、成功の過程を表したりしないんでしょうか。セッションは、スターがスターになるまでの過程の話だったのに比べて、グレイテストショーマンは歌の力でもって実現性のリアリティを出す、というか、主人公の成功の過程(設営準備など)は描写せず、歌だけを内容の根拠としている。その点、「グレイテストショーマンはミュージカルでいいじゃない映画でやる必要がない」を払拭するための、冒頭の幕の後ろで主人公がステージへ上がるシーンがあるのだと思います。冒頭だけ、ショーの裏側を演出しているのは、暗闇による映画館での臨場感のある引き込み、ショー本趣旨以外のドラマ性を映画と定義するような監督側の意向が見えてきますね。それに、カメラワークがとってもよかったね、もう一回見直して勉強します。主人公が成功を目指すための歌唱以外では、ずーっと主人公に影が当たり続けていたのは、なんだろう。光を灯すような動きを足したいからと思ったが、全体を通して、スポットライトを浴びる時は全部引き。オペラ歌手とのカーテンコールみたいなものでは、ちゃんと主人公がオペラ歌手のスポットライトに入れてもらっていた。光が主人公に追うことはありませんでした。なぜなのかは、よくわかりません。

人種問題に触れたようなところがありましたが、サーカスって身売りで粗悪なイメージがありますから、炎上しそうなところは綺麗に攫っている(主人公の部下に対する無理な注文、サーカス団長の強引さで終結させている)ところに冷めちゃった。チキンも冷めちゃった。

映画の出来栄えを主人公の「想像力の膨らむ嘘をついているんだ」に帰着させているところにも冷めちゃったんだよな。アメリカ流の、最後は家族と幸せに暮らそう、みたいな価値観もあって終わり、そういうもんなんだな〜って感じ。アニメでやったらちょうどいい脚本感なんじゃないのかなと思いますね。

高校の時に、簡単な英語の絵本を読まされて、その話が家の地下に歯車みたいな遺産が見つかった話だったんだけど、他所から来た鑑定人が、歴史的に価値のある文化遺産ですよ!とか言い出し、人にあげて金にしたんだよ。博物館に飾られて終了だと思ったら、最後文化遺産の歯車の金で、高級ビリヤード買ってた。こういう国の違いを見ると面白いな〜って思う。

 

この作品でも、何度もエンターテイメントという言葉が繰り返されたが、こういう経緯を持ってして、エンタメの神格化がされてんだね。私はここで、エンタメとは世の中の事件から加害性や悲劇性を薄めて、楽しめるようにしたものと申し上げたが、宮崎駿の現代において古典的冒険活劇はありうるかという演説でいい考えをもらったのでここに記しておこう!!(すごい意訳で、十分じゃないので調べてください。)

昔の食べていけないような時代は、敵というものがはっきりしていた。食べていくのに必要な悲劇で十分だったけど、今はそうじゃない。大戦争が起こって負けて、蓋を開けたら自分も敵も同じように家族を思って生きていた人間だったんだと知った。豊な時代に敵という存在は曖昧になった。ではなぜ今も冒険譚が人気で、少女漫画では世を絶する意地悪な娘が出てくるのか。それは、みんな生きていてよかったって思いたいから。みんな映画館を出て、ああ生きていてよかったなって思いたいんだ。

って言ってました。創作って、自分が正義のヒーローになった気になって見ているわけじゃない。みんな生きていてよかったと思うから、見ているんだなって思いましたね。尾崎豊も、子供の頃は勧善懲悪の精神が強かったと回顧していて、いじめの正体は勧善懲悪の心なのではないか、ということを示唆していました。私に子供は純粋ゆえ残酷といった教師がいましたが、そうじゃないと思う。勧善懲悪の創作は共感を呼びやすい、わかりやすい物語の構造になっているから楽しい。だが子供はそれを虚構と知らずに、世の中へ実行してしまう心があるんだと思う。社会は子供の実現性にどのように向き合っていくのか考えて、幼児向けの創作をしてほしい。創作は世界を変えられるって、大袈裟ではなく私は思います。

 

 

ボーカロイドと宗教

宗教について興味があった時期があって、色々本読んでたんですけど、なんかすごいオタクみたいだなって思ったのね。二次創作みたいだなって。本家(聖書)があって、音楽やったり、本出版したり、絵を描いたり、新しい解釈を考える哲学科がいたり。それに今一番近しいのは、ボーカロイドだなと思う。当時のニコニコの運営体制の良さもあると思うけど、各々が実在性を伴っているというか。みんなで信じて作り上げているからそこにいるような気がしてくるんだと思う。宗教がなぜボーカロイドにこんなに似ているのかは、創意を抱けるからなんだと思います。宗教って、なぜハマるのかってコミュニティを有するからでしょう。共通の話題があるというのは人間を活発にする。だから、政治にも利用されたんだと思う。(政治に利用されたのは、人間関係のメソッドが詰まっているから人道的に動かしやすいというのもあると思うが。)宗教は、人を殺したりもあったけれど、生きていてよかったに非常に該当するものだと思う。でも私は、右翼の三島由紀夫が官邸で反逆を起こしたような志が好き♡

でも私も全然わかってなくて、そういう惨劇などの歴史を知りませんので、これからは概念や経典を眺めるのではなくて、そういう二度と起こしてはいけないことを重点的に調べてゆくこととします。

 

きっと、素晴らしい仕事に就くんだと思って泣きながら寝ることがある。

星野源さんのことがあんまり好きじゃなかったんだけれど、MIU404を鑑賞して、覆りました。なんだか、人のいい演技をするなと感じ入った。何か人徳的な場面で(言うまでもなく台本や監督の意見を汲んだ上で)頼もしい顔をすると言うか、道徳心のある演技をする、人のいい生活が演技に出ている。顕著だったのが、ありがとうと言う挨拶のセリフが無理ない温度感があったところですね。道徳的なところで心を動かしている演技は、特筆して臨場感があった。素朴ないい人なんだなと思いましたね。

でも私は、自分が不憫だと思って泣くようなセンチメンタルな人が好きです。これ以上傷つくだろうと思って傷つきにいくような人が好きです!尾崎豊宮崎駿に代表されるような・・・

宮崎駿が今すごく好きで、何か世間の頼りなさに怒るんだよ。尾崎みたいに。ドキュメンタリーで、若いアニメーターに怒ってた姿があったが、宮崎のパワハラに見ないで欲しいって感情移入してしまうくらいには宮崎駿が好き。その怒りの現場というのが、風立ちぬの制作だった。若いアニメーターは、関東大震災で風呂敷を持って逃げる女の姿を、荷物の風呂敷を手提げのように下げて走って転ぶように描いてた。それに対して、宮崎は「風呂敷は体に抱き寄せて持つものだ、こうじゃない、書き直しだ」ってゴミ箱に捨てちゃう。書き直すのも多分、宮崎がやるのだろう。若いアニメーターの仕事に「何も考えないで生きてるのか!」って怒鳴ってたんだけど、それってお前に向上心はないのか、というような怒り方なんだよ。お前はこんな人生でいいのか!?っていう、自分のために妥協した人生を送るな、っていう怒りなんだよね。アニメーターなんて時間が命で、動かすものを作っているのだから、時間という観念に襲われる。動きの速さの区別はもちろん、作業時間で時間の使い方を学ぶ。自分もアニメを作ったことがあるけれど、1分弱のアニメを作るのに400枚は書かなきゃいけなかった、私の場合は。一枚1分掛けても、400分。1分で描ける絵なんてないので、30分かけても、12000分。200時間かかる。2時間アニメなら、もっとだよ。だから分担して作業しているんだけどね。だから人に怒ってる時間なんて正直ないんだよ。大手のアニメ会社なら、ここ直してください(全部)みたいな感じで、付箋つけられて突き返されるされるだけだけれど、宮崎は自分の机に呼び出してキレる。説得しようとしてくる。仕事の不出来さが能力の低さなんかじゃなくて、性根にあると思っているんだ。自分の善意を突きつけるのがパワハラだよって言われたら何も言えなくなっちゃうけど、不服を唱えているわけじゃなくて、世の中の責任のなさに、怒っているんだ、志はなんだったんだ、という感じで、熱意のある人なんです。わかってよ!!!

こういう、自分の仕事で得た哲学を常用している方で、千鳥の大悟さんなんかも、「上下関係の厳しいところで研鑽を積んだ人は面白い」って哲学があるみたいですね。挨拶とか礼儀に厳しいらしいのですが、相席食堂で、ギャルとプロレスラーは面白いって、上下関係しっかりしてるからだねという風だったので、自分の置かれている縦社会の意義を見出しているということなのでしょう。(今すごいごちゃついているけれど)

自分の得た芸の哲学を、上達の道を他人にも惜しみなく施してやれる人になりたいですね。宮崎さんのように、は勇気ないけど、みんなが、芸術的な人生を臨めるように考えで私は邁進していきたい。

 

今日はもうこの辺にしよう!

見るな!!!!!!!!!!!!!

ユーモアセンスのない人の特徴、ワードが面白いと思ってる。ワード単体が面白いと思ってる。流れがあって、お笑いは成功するのに、おかしいことを言う人だけで完結してると思ってる。悪いVtuberとかは一種の盛り上がりを擦り続けて、面白い流れになりましたみたいな雰囲気出してくるから見れない。次の流れを作って展開にしない。笑いが死ぬ。ネットユーザーのつまらん人は、ワードが面白いとばかり思ってるから、ネットミームを使いたがるんだと思う。「フラグか?」とかも面白くない。一生マイクラ人狼でもしていろ。〇〇、ホンモノの狂人だった とか もう うるせ〜〜〜〜〜よってなっちゃう。

 

ごめんなさい。でも私は、マイゼンシスターズが好きです。

エンターテインメント性とはなんだろう

エンターテイメントのためって一体なんだろうと思う。エンターテインメントって、経済学の中の一種の業種のことを指すのかと思っていた。でも、世間では、一般の社会生活の一層上のような含みを持って語られる。私は、活動の経緯を説明された時に、エンタメのため、と答えられるとがっかりしてしまうんだ。でも、お笑いも好きだし、遊園地やレジャーは好きじゃないけど、映画やアニメ、漫画だって好きだ。お笑い芸人が自分の活動をエンタメのためにと言ったら、それは非常に納得できるのに、音楽家や映画監督、アニメーター、漫画家が自分の活動をエンタメと言い出したらがっかりしてしまう。僕らは友のように心を明かしてきたじゃないか、みたいな気持ちになっちゃう。もちろん自分は作者の友ではないのは百も承知だが、ごんぎつねが母を亡くした兵十の後をつけたように、熱意を持って共感してきた、からかもしれない。

太田光は、よくチャップリンの自叙伝を引用することがある。羊飼いがトラックに羊を乗せていて、街へ出た時、柵が壊れて羊が一斉に出てきてしまう。大の大人たちが暮らしのために、必死になって羊を追いかける。転び駆け回りながら、逃げる羊を追いかける光景がすごく面白かったんだって。チャップリンはそれをお笑いと定義して、人生は喜劇だと言ったとか何とか。定かではないので調べてください。私も、書き終わったらまた見返します。そんな感じで、エンターテインメント性なんていうものは、こういうことを言うんじゃないかと思う。世の中の事件から、加虐性や本質を薄めて、楽しめるようにしたもの。現代では、ウォルトディズニーだかがエンタメの礎を作ったからなのか知りませんが、虚構を虚構と思って楽しむ、アイロニーな存在のことを指すような気がしてならない。奴らが夢の国と自称するように、現実への反のことで、現実ではない。現実に機能し出したら、それは芸術的価値があるというものなんじゃないのかな。

ただ、笑ったりするだけで、すごく価値のあることだって私も思う。Creepy Nutsのサントラにも「人の感情以外何も生み出さぬ仕事」ってあるもんね。対立的にエンタメと芸術を語る人もいるけれど、私は、エンタメを芸術に底上げしたい、世の中がそうなってほしい。でも、エンターテイナーから、それじゃエンタメにならないよ、と言われたりするんだろうか。

話変わるけど、本を納得しながら読んでたら、自分の考えと矛盾するような話の流れになった時どうしてます?読み進められなくなるんだけど。頭がヒッチャカメッチャカになって。

重い決断をする人を応援する人間でありたいよ

YouTubeで、立川談志さんの講義のような番組が上がっていました。立川談志曰く、「人間のすべての事柄は不快感の解消から始まる」そうです。例えば、売れない芸人がいたとして、その人が今のままじゃダメだと思うなら、売れるに伴う努力をしている。逆に、自分の先を読んで「自分なんか売れない」と悲観している内はまだ現状を不快に感じていない、売れなくてもいいと思っているということらしいです。立川談志は続けて、その不快感を自分で排除しようとするのが文化で、不快感を誰かに解消してもらえるようになったらそれは文明である、とも言っていました。なるほどなと思うでしょ。私もこの回は好きで何回も閲覧しています。

こういう筋の通った話を聞くと世の中が整頓されたように感じる。私はそういう言葉や観念を探して生きています。自己啓発的と笑われるかもしれないけど、信じて生きていくには十分な鋭い内容だと思います。私は知識は人を許すためにあると思うので、このように観念的な言葉を積極的にみんな探して生きていったらいいと思います。世の中に対して、納得できる心優しい答えを捻出できるはずなので、なぜ人は賢くあろうとするのかと問われたら、私は優しさのために知識を積んでいると答えます。

私は、自分がどう感じて苦しんで決断しようが、それを受け入れてくれることは少ないんだなと言う経験が多くありました。父親の言動とかね。私が涙ながらに説得しても、「演技をしているのか」と呆れられるようなことがありました。確かに私は劇的な言葉遣いをしてしまいますが、泣いている人間の前では言えないと思う。でも、私は父という存在は子どもの言い分を聞くべきだと思っていた甘えがあったとも思う。父は自室に篭るようになってましたので、ただ不健康な家庭の様子について、私は父に責任を押し付けてきた。

子供に親が親であるべきと言う観念を発生させる学習はすべきではないね。自立精神を欠くから。結局は家を出ていく将来があるってことの方を伝えていくべきだったのかもしれない。その方が健康的な家庭が築けるのでは?絵本とか、「ママはあなたのことが大好きだよ」みたいな本が大量に流通しているが、結局絵本は親が買うので、子どもは親が選別した図書にしかそうそう出会えないよね。流通とか、売り上げとかを気にするせいで、ママは大好きだよ系統の本しか発生しなくなるし、不健康な家庭が生まれることになるんだから。消費って怖いよ。

まぁいいんだそんなことは。とにかく私は、苦しんだと言う経験は人生の何の足しにもならんと思うんです。一度集団からやんわり排除されてきた人間は、もう傷つける側に立ってしまった生き方しかできないから。その状況を超えていかなきゃいけない。常に新しい議題で熱くならなきゃいけないんだ!!!!!!!!!!!と思っている。だからもっと、本を読むし。自分の作品を増やしていかなくちゃ!!!!!!!!

今日は短めにこの辺で。

2024/1/26LMGC セルフ魚拓

2024 1月26日 zepp diversity で開催された LOSTMAN GO TO CITYの感想ポストのセルフ魚拓です。

会場はほぼ男性で居づらかったのですが、一人で行って一人で帰ってきました。

十分楽しかったです!!!!!!!

 

以下魚拓

 

すごい鋭い歌いきり方をする場面もあり、総じてロックだしかっこいいのに、 見えてくるビジョンは、鍵穴の中の暗闇だった、 鍵穴をずーっと眺めて目眩を起こしているような感覚だったが序盤は...

定番曲なんだろうな!とか、ライブになるとこうなるんだ!だったし「楽しもう。楽しい」とご本人たちが繰り返していたように、意味性を作ったようなものはなくって、こちらは好きな音楽だ!!っていう気持ちでいっぱいいっぱいだった、楽しそうにしている人を見てもこんなに楽しい。

特筆したいのは、primer beat、なんだか、すごくあの場にそっくりな感情を見つけた。ぴろーーーずのステージって、階段で滑った時の感覚によく似ている、転ぶ不安はなくてその分嬉しいって感情に包まれている。この感情の濃度がめちゃくちゃに強かったのがprimer beatだった。

ステージ真っ赤で登場するとこ、冗談じゃないんだけど宇宙人が襲撃に来たみたいだったな... あと50代、60代ではないか!?の方に思うことではないけれど、manabeさん体型がチャラかったよ...

shinichiroさんっていうかドラムがあの位置にあるのってバンドでは普通なのかもしれないが、日本は奥に座っている人に権威を見る文化があるから、すごい宗教的な配置だなと思った。

yamanakaさん、めちゃくちゃかっこよかったしいろいろ考えたことあったけどほぼ忘れてしまった、 なんだろう、まだyamanakaさんを見ている時の感覚が手の中にあるや・・

あーーーー!!!!めちゃくちゃ、yamanakaさんのギターで撃ち抜かれて最高だったことを思い出しました。 yamanakaさんは冗談抜きで、一個ツアーが終わったらすぐソロでツアーしたりその都度EPも出すというとんでもなく速いサイクルで音楽やっておられるので、本当に見習わなきゃいけない。

めちゃくちゃかっこよかったな。ドラムとギターがねじれたように、抜群に良い音色を奏でていた時もあったし、 プロポーズの「それから何がわかる」のフレーズ、yamanakaさんの出した音(超次元的音、または意識)に確実にこちらは乗っかっていたし、そういう瞬間が度々あって嬉しかった!!!な!!!

生姜湯の話めちゃくちゃに好きだね〜〜! さっきまで「〇〇じゃねーよバカっ!」とそうりゅうあすからんぐれーのようなyamanaka節が炸裂していたのに、 普通のテンションで面白い話されててめちゃくちゃ笑った。

行く前、私はめちゃくちゃ緊張してたから(なぜ)、案外楽しいだろ!?って言葉が非常に刺さった。 音楽形態って宗教性のあるものだと思っていたけど、そうじゃなくてもめちゃ良くて、その上この場に長い歴史があるんだと思ったらとても良い気分だったなぁ。

案外楽しいだろの言葉、内包される繊細さ感じて 震えちゃうよ〜〜〜ん。 みんなこういうとこも好きなんだろうな...きっと...

35周年ライブの話になってyamanakaさんが「演る曲は全部俺が決める」って俯いて客を突き放してたんだけど、その態度が6畳の部屋に二人きりくらいの距離感だったよ。こちらも無言で頷くような返信を必要としない会話だった。客の各々の6畳に各々のyamanakaさん居たろうな。

「いいツアーだった」と回想した後に、「今日も最高だったよ」とフォローしてくださったり 鳴り止まない拍手と歓声に「すげー嬉しい、ありがとう」っておっしゃってた時の言葉尻が甘くて 6割男性客の会場全体がyamanakasawaoの女だったあの時間はなんだ〜〜〜〜〜!!??!(怒涛の誇張)