ナムアミアン

アニメ/音楽/映画/美術の話などをする予定でした。

お堅い人間の愚痴

自分の知人たちが純粋でいて向上心がある人間ばかりなので、私の話を曇りなきまなこでスーッと聞いてくれるんだけど、気分がよくなってしまいそう。という勢いで人を確実に傷つけるだろう考えを述べることにする。以下文章を読んで傷つくだろうなと思う人は責任を持って読まない選択をとってください。特定の団体への恨みがあるわけではなくて、それを持ってどう行動するかの指標と捉えてください。自分はそう思わないぞ!と思われたら、その旨の活動を持って戦いましょう、お互いにぶつかって磨かれていきましょうね。いいじゃん上等〜🤘の方だけ、以下の文章にお付き合いいただければ幸いでございます。

 

 

Vtuber側の「採用!」と本人以外転載禁止の文化どう思う?

 これね、雑魚見出しではなかな伝わらないと思うので、説明します。

Vtuberの多くは、キャラクターイラストをメインとした活動形態をとっていますね。人間のユーチューバーとの違いはそこにある。活動者をキャラ化することで、運営しやすく、尚且つ萌え層への訴求ができるということなんです。

Vtuberは人間の活動者に比べて表情性に欠け、アニメに比べて動きに欠けるが、視聴者は活動者の声色とテンション、キャラクターが喋って面白いことを言っている要素のみで、楽しんでいるのです。

それがファンアート文化と相性が良かった。絵でのメディアを使用したことで、活動者を応援する絵描きが勝手に絵を書いてくれるようになった。今までのファンアートとの活動者(Vtuber側)の関係が違うのは、活動者がファンアートを流用するようになったということなんです。

SNSに上がったファンアートを、活動者が選び、動画のサムネイルにしたり、エモXのポストに転用している。視聴者もサムネイルに新しい絵があれば、見栄えがあって面白いし、活動者は棒立ちの立ち絵一枚を活動形態としていますから、無料で使える絵があれば都度フレッシュな印象を与えられていいですよね。

Vtuberはが表情性に欠けますし、絵は各々が勝手な印象で描きやすいというのは絵描きの評価なので置いといて、絵描き側も了承して絵を描いている。むしろ、Xの紹介文に「本人以外転載禁止です」とまで注意してしまっている。それでいいのか!???!?私はいつもそう思う。

著作権については、インターネット時代の現在、もっと緩く取り締まるべきという考えでおります。現在画像データ音楽データは非常に簡単にダウンロードできるわけですし、それの取り扱いも同じように簡単になればいいと思います。Vtuberは、長い生配信を活動形態としていますが、それの面白どころだけ短く編集した切り抜き動画なんていう文化もあります。ファン有志で行なっているチャンネルなどがほとんど。著作権著作権者の申告がなければ罰せられませんので、意識改革でどうにかなる部分だと思うのです。(前例が切り抜き文化と思う)

切り抜き動画の仕組みは非常に画期的だと思いますし、ファンとしても、応援している人が自分の手で広まるのはすごく嬉しいことですよね。でも、なかなか難しいよね、ファンアートは。私が注視しているのは、索引がないことです。もっと絵の出典先を明示するべきだって思う。

切り抜きはフォームをYouTubeとしているから、自分のアカウントでの投稿、削除が可能ですね。作品のコントロールを自分重視にしておけるけれど、ファンアートは画像を保存して、出典先の明示もないまま流布。それはちょっと問題あると思う。絵は名前のない人が描いているという印象を助長させるし、ピンタレストなんかは著作権無視の無法地帯だけれど、投稿している人もAIなのか、人がやってんのかすらわからないくらい匿名性がある。物の価値のバランスが取れているということなんです。

活動者側は、ファンアートなんて肖像権の侵害だから権利は自分にあるという言い分で罷り通っているのでしょうが、前提が間違ってる。著作権の今後を提示したように、もっと寛容になるべきだと思っています。題材として用いたことと、絵に描いた創意工夫についてのパワーバランスって、どっちも同格にあると思うし、索引を載せないのはただ思いやりにかけると思う。著作権だって、それくらい緩くなきゃ今の時代のシステムとギャップがありすぎるよね、と思うのですyo

 

終わり

 

イラストレーターにデザインを受注する活動者はなにを食べて生きてきたんだろう

イラストレータにデザインを受注する人はなんだ?の気持ちがいつになっても絶えない。イラストと違ってデザインは方法論だったりして、ノウハウがしっかりある分野なんですね。だから間違いというのがしっかり存在している。間違いをあえてするならいいけれど、あえてやってる人と偶然よくなった人と本当に間違えているの、マジでわかるよ。

だってデザインは算数と一緒だから!!!イラストとデザインが同じと思わないでほしい。私もデザインよく間違えるし、よくなかったなと思う部分もある。でもそういう話じゃなくて、デザインをなめてる人が多すぎるよ。もう泣いちゃいそう。デザイン間違えるのはしょうがない、私も間違えているので。でも恥かかせてることになってしまうではないか、と思うんですよね。ノウハウのない人に頼んで、時間のないまま取り掛かって名前と作品を共に開示されるのは、厳しいよ。自分のグッズは全部デザイナーに任せて、専門家と確認せずともいいものに決まってるから即時OKするって言ってる人いるけど、お金儲けをするつもりないからに帰着されるじゃない。人の良さだったらどうしよう。グッズなんて、買うのオタクだから、それが肌感でわかるから、考えないを告白できるんだろうけれどね。デザインなんて、金儲けの分野なのにね。最低工数で最大効果を私は目指してますよ。だからデザインが好きだし、お金を産む活動がすきだね。どれくらいお金をうまく使うかということでもあるだと思う。世のデザインの水準の乱れについてはお考えになっていない、ということでよろしいですね、って気持ちだ。体系的に物を考える賢い方ならば、そうはならないと思う。モテるために音楽やってるやつ嫌いと一緒じゃんね。この点を私は一生フォローしないし、デザイナーという肩書きがある以上、自分の矜持のために折れませんにょ。

話変わるけど、イラストレーターの人がデザインやる時、放物線が筆跡のあるニュアンスの余分な線を入れ込みがちなので、見てほしいですね。びっくりするくらいみんな入れてる。この空間の妙は、イラスト畑の感覚だなぁと思うので、驚きますよ。むしろこれをやってる人の絵は信用した方がいい。

デザイン見た目が良ければいいだろ!っていう物の良し悪しの話してんじゃないんです。正直に言います、世のデザインをもっと効果的に見てほしいし学んでほしい、じゃないとデザイン終わるから。(じゃないとAKB終わるから)

デザインも勉強期間があって、自主制作で取り組みながらお仕事で実行するっていうのが私の理想系です。でも人間にそんな時間ないからね。ニートじゃないんだからね。デザインにだって、歴史がある。それを知ってほしい。誌面のことを言うなら、本がはじまった当初からデザインはある。それから、文字がどうすれば読みやすくなるのか、取り扱いやすくなるのか、多く人目に付くシステムはないのかと言うノウハウの蓄積が今の今まで形を変えずにあるんです。

本(聖書)を効率よく刷るために活版印刷は活用されました。活版印刷とは、文字の一つ一つがスタンプになっているものを組んで文章を作って刷る技術のことです。銀河鉄道の夜の主人公ジョバンニがやっていた仕事は、活版印刷所でしたよね。ジョバンニは文字のスタンプが詰められた棚から、任意の文字を探す仕事をしていました。ヨーロッパでは14世紀に活版印刷が栄えたようですが、活版印刷の頃から文字くみ(文字を選んで並べること)と言う動作は現代でも何一つ変わらない。デジタルになっただけです。これが普遍性の神秘というのでしょう。

デザインは機能してなんぼなんです。だからお金儲けできる。システムの一つとして産業と共にあるので、イラストとは全然違う。イラストはもっと、メインストリートのアーティストの仕事でしょうが!!!感性に及ぶ仕事ですよね。

おしゃれな文房具や、カーテンや布製品のパターンを見て育ったからでしょうか、イラストとデザインの垣根がないように思われてしまってますが、惑わされないでほしい。

物の構成をよく考えてみたらもっと、世界の脅威を精密に知ることができる。手帳一つとっても、まず企画、発案、素材の生産、素材の加工、デザインする人、デザイナーに頼まれて絵を描く人、運搬する人によって世に出回ってるんですからね。怖いね。物を知ることは人を知ることだ!!!!!!!

 

終わり

自意識についての考え

(以下12/1の日記の引用)

それに、人と話していると、相手の自己評価のズレを感じることがある。自己評価のズレとは、本人の自称と、私含む他人の評価のズレのこと。例えば、世に蔓延する「繊細さん」という認識だが、公にそれを自称する人に対して繊細な人だなと感じることがあんまりない。繊細さんとは、他者に気遣うあまり人の言動に傷ついてしまって、人間関係に消極的になるという傾向を持った人を指すようだが、繊細さんを自称する人の多くは(稀に本当に繊細な人もいるが)鈍感な人が多い。主義主張が激しいまたは、自慢話ばかりする人がこれを自称している。そういう人はやんわりとした排除の兆しが見えるまで、相手を害する自己主張をし続けるから人に傷つくのだと思う。自己主張と、他人の評価がズレるというものの例として繊細さんを用いたが、逆のことも言える。自分は適当な人間、と自称するあっけらかんとした爽やかさを持つ人の方が、気遣いしいな要素を持つことが多い。だからと言って、後者のような人間から良き人間性を学べ‼︎と言いたいわけではなく、自己評価と他人の評価にズレが生じている人は、総じて幼いということだと思う。子どもと大人の成熟の度合いというのはこういうところのみだ。

 

↑ 繊細さんという枠組みについて、独我論なのではないかとおっしゃっている方がおられました。しかし、自分のみ繊細に受け取っているという暴露ではなく、今自分がそう感じているという表明であるということみたいです。顔アカウントさん(オモコロで小野ほりでぃというペンネームで漫画なども執筆されてます)のXをのぞいてみてください。独我論ってなんだろうなので勉強します。

好きじゃない音楽って誰にもあるよね

マジで、オフィシャルひげだんディズムが本当に嫌いなんだよ。ミセスグリーンアップルも好きじゃない。特に後者は鏡を見て歌ってるみたいな方々だと思っている。私の個人的な、流行り物に対する嫌悪なのかなんだかわからないが、今まで生きていてこの方達の音楽にいいなと思ったことがマジでない。私のことを現実で知る人間は、よく見かけるだろうダメな癖の勢いで執筆している。タイピングが止まらない。もう、助けてください。私はライブで「皆さんの声を聞かせてください」みたいなのが私には本当に寒くて凍え死ぬんかと思うし、みんなが喜んで盛り上がるようなのを腐すタイプの人間が執筆しているって、責任を持ってご承知の上、下記の愚痴を読んで欲しい。もう無理だと思う人は、下記の内容を読まないように努めてくださいね。お願いします。

 

 

 

 

 

 

ひげだんは特に、書いてる人間の精神性が軽薄で、なんだろうな、一方的な悲劇を演じていると言う感じがある。知性を感じないのでなるべく聞きたくない。まるで、公共施設で、後の人を考えずに利用している人を見た時と同じ嫌悪感を覚えてしまうんだ。簡潔に申し上げるなら、被害者ぶっているように聞こえるので聞きたくないんだよ。そう言うのが、曲調にも出ている。ドラマチックで、おしゃれで、日本の音楽系メディアで信奉されたココロヲウゴカスオンガクの存在をなんの屈折もなく受容し演じているようなとこが、マジで嫌いなんだよな。最低なことばっかり言ってるじゃん!!!殺して!!!誰か私を止めて!!!!!!

それが今日、命日だよ。なんだこれは。俺に死ねと言っているのか!?(←糖尿病を患っていた父による、母の料理が少し塩辛かった時の言葉。両親離別後ギャグ化している)私の、応援している歌手であらせられる、伊東歌詞太郎さんが、ひげだんのカバーをしてしまったんですね。あああああああああもう言葉にもできないよ。本当に軽蔑する!!!!半永久的に残る媒体で華々しく残してしまったことの、ああ、伊東先生はそんな人だと思ってなかった!!と言う気持ちがある。この雪辱を綴ってもいいだろう。少しくらいは。。。

と言うのは半分冗談としても、詩の音を引きずったようなかっこいいギターは、E.S.Eさんのニュアンスなのかな。すっごい好きだ。E.S.Eさんはライフライブのモデルの方ですね。前身のバンドの一人だと踏んでおりますが、アルバムのような体裁整った場所だけではなく、こういう機会でもお仕事していてにっこり。あのバンドでメガネをかけているのは、お一人しかいないような気がします。すごくお茶目な方と存じ上げている!一発で歌ったようですが、はぁファーストテイクも嫌いなんだよな。何あれ。どういう、はぁ、だから、あの熱量が寒いんだって。マイクの音質も過剰エモで耳障りだし、グループ魂の動画しか楽しめなかったよ。郷ひろみさんなんてセンターの定点カメラで魅せてきた歴史があるのに、あのジャケット芸をあろうことか横位置で見せてくる媒体だぞ!!!!私は、どこがいいのかわからない。私が、嫌いだと言っているオンガクの在り方そのものだ。一回で歌うってだけの手法が演者の持つ技術のおかげで、ファーストテイクのみに集中した感動の乗った崇め奉りの勢いが嫌だ。あと動画の概要欄で、感じすぎてんのか、小洒落た体言止めを見ていると、もう全身が痒くなるんだよ...(最低か?)まぁ、美しいシンプルなフォーマットと思う、全てにおいてサムネイル的だし、ユーチューブや現代での戦法だろう。でも私に近寄らないでね、と思うし、好んで聞いている人がいるなら、軽蔑する♡

まぁ、クライベイビーにつきましては、ファーストテイクを模倣しているのであれば、ボーカルだけのボリューム全開というかムードのある加工はするべきではなかったと思う。(それはそれでめっちゃくちゃ嫌)臨場感のビジネスだしな、動画もせっかく撮ったのに。サビもなんか、ひげだんのボーカルの人のような高さを、悠々に出してるのか、出してますよ!感を感じないしね。ひげだんのことそう言う部分で聞いてんじゃないのかな、客は。こういうの見てると、伊東先生はあんまものを考えない人なんだろうなって思うよ。一生そうしていてほしい。そう言うところに私は、神秘性を感じているのだし、伊東先生の歩く道を整備し花吹雪を用意しているのに、ひげだん、マジで一生許さないからな。だからさ、ひげだんはイトヲカシとステージ一緒だった時があって、その時はまだ売れてなかったけど、曲中のMCで「俺たちも大きいステージで歌えるようになりたい」って自己演出してて、一生それしてるじゃん。あれからまったく変わってないよ。曲までそれが染み付いているし、どう生きようが私に関係することじゃないから、って疲弊の言葉も飛び出てしまう。ひげだんの表現のゴールと、伊東先生の培ってきたものは多分、違うんじゃないのかな。伊東先生の叙情的な語尾の表現は個人的なものだからね、ひげだんは技術的っていうか、それこそ脈絡ない言葉をつなげるような音楽を好む方々の志向があると思う。そんで、懐中銀河めっちゃ良かったな。

めちゃくちゃ話変わるけど、妄想疾患闇ガールって、伊東先生のために作られたんじゃないかって、思うくらい音の乗り方が一致していると思う。投稿2014年だって。

 

漏れ出たポスト(こみゅじけーしょん1)

音楽制作の手法の一つにコライトというものがあって、 製作者が共同となって制作するもののことを言うらしい。 権利的に見れば、名前が並ぶだけなのだけれど、 制作形態というか人の活動に名前がついているのって、 分野はわからないが、人間を知る学問みたいだな〜と思った。 昔の文化の話みたいだ!

ボカロ曲の文脈が形骸化した単語の羅列に聞こえるし、それを美しい日本語と崇拝している人は苦手と言うポスト見ました(書き手は詩に注目した場合と注意している) 音楽の要素って、詩だけじゃ、ないんだぞ〜〜〜〜〜〜!!!と言う気持ちの根拠になってくれたのが今回だった!

契約を通してから、大人に囲まれた環境で生まれた曲しか市場に回らない時代は終わったのだし、 精神的に未熟な人が一人で作ったと言う背景は、生まれやすいのになぁ。 まるで私は発言者に、留意しろと言っているみたいではないか..?

世に出回っている曲の構成は洋楽ベースの曲調だから、日本語では言葉を乗せにくいと言う話はよく聞くけど、尾崎だってもはや朗読だもんな、はは。もの作る時、やっぱどこをメインにするかで、部分の内容を薄くしたりするものね。でも私の言い分は個人に依ることのみしか触れれず、社会的位置を含められないのかもれないが、、何を言おうとしたのか忘れました。

 

日記(2023.12.5)

私の夢について記述したい。私は、作家になりたい。というのも、明治の作家のようなもので、文書を出しては、向上心のある人とお酒を呑みながら議論をしたい。話題が下火になってきたところで、本が積まれた埃だらけの汚い部屋に帰る。1畳ほどのスペースに体を横にできる場所があって、枕の横には原稿、熱い気持ちを上にするように仰向けで寝転がり、書き留めるべき事項を頭に巡らせながら寝られたらどれくらいいいんだろう。この時、社会に認知される活動に着手しているという点は考えていない。さらに、文書として発表するだけの内容、従事している事柄については何のビジョンもない。明治の文豪は、何か伝えたい事象に向かって筆を取っては、そのような生活を営む結果になっただろうが、私はその生活のみに憧れているため、形骸化した憧れで、中身は本当にない。でも、子どもの頃抱いていた夢も同じくらい無責任だったはずだ。それにしても何か、人は、活動していないと憂鬱になってくるし、やりたいことがあればいいけど、私は自分の生活に非常に満足している。やりたいことはいっぱいあるけど、もう今はそんなことをやっていられる熱量は自分の体のどこを探してもない。あ、文筆家として書きたい事象を思いついたぞ。私はこの前、ガチャガチャで4000円スッた。浪費というか、お目当てが出るまで引いたのでスッたという表現に近い。私は4000円を労働で生み出すことのできない人間なのに、大事にするべき4000円を財布から取り出し、全て両替機に吸い込ませた。両替機に札を入れるときの、紙であるはずの物質が妙な滑りの良さを持って機械に飲み込まれていくあれはなんだ。目を閉じると光景が悪夢のように浮かんでくる。パチンコも同じ容量で、お金が吸い込まれるビジョンに悩まされたりするんだろう。あの一瞬の、ものが欲しいって気持ち、ってそれは、村上龍原作庵野監督の、ラブ&ポップに描かれているか。な〜んかも〜やる意味ないっすわ〜...

日記(2023.12.2)

先日、ビックボーイで食事をしたのだが、私の恒常メニューである、アヒージョがメニューから忽然と消えていた。ビックボーイは、非常にリーズナブルなファストフード店であるため、ハンバーグとアヒージョを追加して1200円ほどで食事を済ますことができる。国内ハンバーグチェーン店の中でも、びっくりドンキーと肩を並ばせるほどの店舗展開をしている企業なのではないだろうか。なんと、ビックボーイでは、140gのハンバーグ単品(サイドのポテト、冷凍ブロッコリーは付属されている)が、690円で提供されている。ハンバーグのプレートは極熱であり、口内火傷必至。油でべちゃべちゃ系のハンバーグだ。邪道も邪道、身をフォークで突き刺そうものなら、内側からひき肉がボロボロ崩れてくる始末である。ハンバーグ嫌いを自称している私にとっては、最高のハンバーグだ。今回、話題に挙げたいアヒージョは、サイゼリアのものとは違って、輪切りのフランスパンが付いてくる。追加で頼む必要はなく、セットで539円、非常にお買い得だ。ビックボーイのメニューはほぼ全て食材が油でびちょびちょなため、アヒージョもオリーブオイルで海鮮がひったひたになっている。本場のアヒージョを食べたことはないが、サイゼリアのものと比較すると、パセリを潰したようなソースではなく、食材をオリーブオイルに漬けたような感じで、冷凍を感じさせる海鮮に塩辛い味付けを施している味がする。そこが美味しい。ネガキャンにも思えるような批評だが、ぜひ食べてみてほしい。レンチン食品みたいな味が確かにするはずだ。ジャンクなものが好きな方にはぜひお勧めしたいお店である。

このように、チェーン店やコンビニは、メニューの入れ替わりが激しい。コンビニなんかは特に顕著。そもそも、オーナーがその地に需要が高い商品を仕入れているので、プライベートブランドであっても、最寄りのコンビニにお目当ての商品が陳列されていない場合は少なくない。コンビニ自体、商品数の多さとと店舗規格が合っていないため仕方のないことだ。でも、いなくなるなら、一言言ってほしい。最近は、社会情勢の影響で、メニューが変わったりもする。なくなった途端に、私の生活を未知に救ってくれていた異国の人々の姿が、ボウッと浮かんでくる。私を慰めてくれた食品や、平然と手にしていた商品を作ってくれた人はもう、戦争で亡くなっているかもしれない。もしくは、就労の過労で倒れて、今病院にいるのかもしれない。そう思うと、自分の怠惰な生活が一つも許せないようになってくる。私は、働きたくないだとか、絵の勉強ばかりして、そんなのは一つも生命の役に立たないのになんでこんなことをしているんだろうと思う。特に最近は、自分でも目覚ましい食欲を感じていて、稀に食事での幸せを感じるようになったのだが、ポテトチップスの袋を興奮気味に開けた時も、ひもじい気持ちは人を殺害する動機になると思い知った。私の神経衰弱も、二日三日食べない状態を強いられれば、たちまち回復するだろう。私は、目を閉じたとき、知らない場所の、知らない工場に佇む、知らない人が一から発想して組み立てた大きな重工機械が、薄暗い工場内でゴウンゴウンと動き出すのを想像してしまう。世の中には知らないことがたくさんある。その全てに、興味を持っていけるようなドラマがそれぞれにあるんだろうな〜・・・

PSYCHO-PASSというアニメで(以下ネタバレ)国家転覆を目論む悪役、槙島聖護が企んだのは全自動の小麦生産施設の爆破だった。PSYCHO-PASSは、司法が存在しない近未来の日本が舞台である。法治国家が日本だけという前提のもと、物語が進むSFアニメだ。司法はシビュラシステムという人間を選別するシステムに代替され、国民はシビュラに従って生きている。日本は法治国家としての安全性(シビュラの運営)を保守するべく、国内を鎖国状態にしている。そこで、槙島聖護鎖国を解かざる得ない口実として、国内の小麦生産を停止させ国民を飢餓状態にすることを企んだ。どことなく、有名菓子店を襲ったテロに似たものを感じる。人間が人間たらしめる要素は全て、外界の人間であることは確かな気がする。自分自身というものは、自分を十分に補完するようなものではないのかもしれない。何にしても、反発する心のみに、自分自身を強く感じたりするのだろう。